石川県と松井

映画のワンシーンのように、砂浜を車で疾走する!晴れた青空の下で、砂浜をドライブすると気分も爽快!

タイヤが埋もれるかも?!なんていう心配は無用。粒子がとっても細かい砂が、海水を含んでとっても固くなっているので大丈夫。大型バスが走っても埋もれることはありません。そんなドライブウェイがあるのは石川県の『千里浜なぎさドライブウェイ』観光バスもガンガン走っているし、バイクで疾走している人達も見かけることができます。ここは、日本で唯一、波打ち際を走ることができるドライブウェイなんです。砂浜の波打ち際を走ることができるので、なんと、砂浜でありながらも「道路標識」が設置されているんですよ~ そして、日本の渚100選にも選ばれています。 ※1

『千里浜なぎさドライブウェイ』とはどこでしょう?! 場所は石川県羽咋郡宝達志水町です。羽咋郡(はくいぐん)は石川県の能登エリアに位置しています。石川県は、日本三名園の一つの兼六園が有名ですし、ひがし茶屋屋敷や長町武家屋敷なども観光に行くなら抑えたい場所です。他にも加賀友禅・輪島塗・金箔・九谷焼など和テイスト溢れる物がたくさんありますね。そして忘れてはいけないのが、ゴジラ松井こと松井秀喜さんです。

2013年に長嶋茂雄さんと一緒に、国民栄誉賞を受賞されました。そんな松井秀喜さんは石川県能美郡根上町(現:能美市)出身なんです。能美市は加賀地方に位置する場所で、根上町(ねあがりまち)は日本海に面した町でもあります。根上町から出た日本を代表するプレーヤーが出ましたが他にも著名な政治家も同じく根上町出身でいらっしゃいます。おまけに総理大臣経験者でもあるその方は第85-86代 内閣総理大臣の森喜朗さんです。

松井秀喜さんを語る時、必ず出てくるのが松井秀喜さんが高校生だった時の1992年夏の甲子園。

星稜高校は2回戦の明徳義塾高校戦で敗退しました。明徳義塾が3対2で星陵に勝った試合です。この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、そこまでして勝ちたいのか?!と明徳義塾の監督に対して怒りを覚えたことを思い出します。この5打席連続敬遠は、社会問題にも発展して、高野連が急遽記者会見を開いたりもしました。この時の明徳義塾監督の馬淵史郎監督は試合後にだしたコメントが、「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」「良い打者を敬遠するのは当然の作戦」とコメントしました。一方試合後のインタビューで松井は、憮然とした表情でありながらも「ルールに則った作戦なので、何も言うことはありません」と答えていました。高校3年生で、なんて大人なコメントしているんだろう。もっと怒りをあらわにしてもいいのに?!と思った記憶があります。高校卒業後、巨人に入団しその後海を渡りMLBでプレーするようになった松井ですが、いつもきちんと受け答えをしている姿をテレビで見ると、本当にこの人は紳士なんだな。と思うようになりました。星稜高校の山下監督も、松井選手がメジャーリーグで活躍するようになってから、テレビのインタビューで5打席連続敬遠の時の松井のインタビューを見て、「大人の対応でした。松井があれほど大人の態度を見せたのには、驚きました」と答えていたと記憶しています。高校生の時から、あんなきちんとした受け答えのできる選手だったのですが、意地悪な見方をする私は、どうせプロに入ったら勘違いするんじゃないの?!とも意地悪に見ていました。そんな意地悪な見方で、プロ入りした松井選手をテレビで見ていましたが見れば見るほど、「この人は本当に紳士だ」「子供の手本になる人だ」と思うようになっていきました。

松井選手の生い立ち

根上町出身の松井秀喜(身長188センチ・体重95キロ)さんですが、1974年6月12日に二男として生まれています。生まれたときの体重は3,960グラムだったので、特別大きな赤ちゃんではなかったようですが、3歳で自宅近くの保育園に入園しますが、保育園史上最大の園児と言われたそうです。当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っているので、3歳で8歳に見える保育園児・・かなり大きかったんですね。

普通の子供より、体格が抜群に抜き出て大きかったことから、根上町立浜小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チーム「根上少年野球クラブ」に特別に入団させてもらったそうですが、幼すぎて監督の指示が理解できるはずもなく、一旦野球をやめてしまったといいます。4年生の時に、父親から再入団を勧められたようですが、1年生の時に感じたショックがまだ残っていたようで父親の勧めがあっても、入団は拒否したそうです。松井秀喜さん3歳年上のお兄さんが熱心に野球に打ち込む姿に触発されて、小学5年生の夏休みに再び軟式野球チームに入団。そこから、本格的に野球を始めました。その頃から、既にプロ野球選手を夢見ていたそうです。元々は右打ちでしたが、大きな体で豪快に打球をバンバン飛ばす松井少年は、野球仲間であった松井兄とその友人が松井少年を打てなくする目的で強引に「尊敬する掛布選手(当時は阪神タイガースファン)と同じ左」で打つように勧められ、左打ちに変更したといいます。これが運命の左打ち転向になった理由はこんな単純な理由だったんです。そして野球を再スタートする1年前の小学3年からは、町の少年柔道教室にも通い始めました。ここでも身体能力の高さを見せるべく、見事な成績を収めています。能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入ったことで、国体強化選手にも選ばれていました。松井秀喜さんは「野球よりも注目されていたんです。立ってよし、寝てよし。石川県では結構、強かったんですよ」と自慢しています。柔道の他に、わんぱく相撲大会でも活躍していながらも、ピアノも習っていたようで、ピアノも演奏していました。

能美市立根上中学校に進学しましたが、中学進学にあたり、柔道を続けるか。野球をするか。と本人も悩むこともあったようですが、能美市立根上中学校には柔道部がなかったので、野球部に専念することになりました。中学入学時で身長は170cm、体重は95kgに達していたというので、すでに大人並みの体格です。中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手へと転向しました。通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったこともあります。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあったいいます。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったというから、パワーがすごかったようです。その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場、個人戦で優勝しています。根上中野球部時代のあだ名は「関取」「相撲取り」でした。中学時代の野球部コーチ・高桑充裕氏は多くの松井の野球の師の中でも特に厳しかったことで知られています。アッパースイングだった松井に王貞治を手本にしたダウンスイングを指導したり、とある試合で敬遠されたために怒りの感情を露わにした当時の松井を試合中でも激しく殴打し諌めたというエピソードがあります。その頃から、紳士になるべく育てられていったのが窺えるエピソードですね。

そして高校はご存じ星陵高校へ進学します。星陵高校へ進学したキッカケも、中学時代のコーチが星陵高校卒だったこともありコーチから勧められたり、また星陵高校監督からも熱心な勧誘があってのことですが、松井秀喜自身は「野球は大学までやらせてもらえば」というぐらいの気持ちだったそうです。ところが、高校時代に打者としてどんどん注目を浴びるようになり、高校を卒業してからプロへ・・と気持ちも変化していきました。

1歳年上のイチロー選手は、中学時代には既に松井の名前を知っていたといいます。1990年6月24日に星稜高校のグラウンドで行われた愛工大名電との練習試合で、松井秀喜とイチローは初めて顔を合わせました。その時に一塁ベース上で会話をしたことをイチローは覚えています。イチローはその時のことを語っており「一人、でかい選手がいて、振りがすごく速い。それが松井君でした」と言っています。松井は「イチローさんの打撃はうまかった。左へ右へきれいに打ち分けていたなあ」と思い出していっています。練習試合の翌年に、愛工大名電の合宿所で再び顔を合わせた際には、風呂で偶然一緒になり、その後2人きりで将来のプロ入りについての会話をしています。松井はこの時のことは鮮明に覚えているといいます。共に高校野球界で頭抜けた存在だった2人は、高校時代から既に互いを意識していた模様です。お互いメジャーリーグへと行きますが、その後もとかく松井とイチローと比較されることが多いのですが、お互い気になる存在であったことは間違いないと思います。

松井さんは、ドラフト1位で巨人へ入団しましたが、入団会見で他の新人選手が抱負として憧れの選手名や具体的な成績目標を述べるのが当たり前ですが、松井は「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べました。高校卒業したばかりの青年が、このような発言をできることが松井の素晴らしさではないでしょうか。

入団してからも受け答えはもちろんですが、ボランティアもしていることを知り、スポーツ選手として手本だ!と思うようになりました。

ジャイアンツ時代から天災やテロでの被害者・被害地への義援金を一度に数千万出資していますし、1997年の重油流出事故では100万の義援金を寄付。2004年12月26日に発生したインドネシア・スマトラ島沖地震の際には義援金として5000万円。2007年3月25日に発生した能登半島地震の際には1000万円を寄付。2011年3月に発生した東北地方太平洋沖地震では5000万円以上の義援金を寄付すると共に、MLBの公式サイトに英語で被災地への支援を呼び掛ける動画メッセージを掲載しています。そして、ベトナムの恵まれない子供の里親としても支援していて、一人につき15000円。10人の里親なので月々150000万円の支援をし続けているのが、立派だと思います。

松井はメジャーリーガーだった、ロベルト・クレメンテからの影響を受けて慈善活動にも取り組むことになったと言われています。現在、アメリカメジャーリーグの賞でもロベルト・クレメンテ賞というのがあります。これは、人格者で慈善活動を積極的に行なっているメジャーリーグ選手に年に一度選ばれて、贈られる賞です。

ロベルト・クレメンテ選手は1972年末に慈善活動中に事故死で亡くなりました。プエルトリコ出身のプロ野球選手の外野手です。メジャーリーグにおいては、プエルトリコ出身ということもありヒスパニック系選手の先駆け的存在のため、現在でもプエルトリコ出身の選手から目標とされていることが多い選手です。キャリア4度の首位打者、1度のMVP、ゴールドグラブ賞を12回受賞、そして1972年シーズン(9月30日)に3,000本安打を達成しました。その3,000本安打を達成を祝うパーティの日、1972年12月23日ニカラグアで地震が発生しました。パーティの場でも地震のことが話題になりました。クレメンテを中心に救援が検討され、翌24日から救援活動が行われました。クレメンテを中心として救援物資を募っていたのですが、ニカラグアの軍隊の兵士がその物資を盗み、モルヒネを売りつけているという情報を知ることになったクレメンテは、「私がニカラグアへ飛べば盗難はなくなるだろう。このロベルト・クレメンテから物を盗むことはないはずだ」と言い、ニカラグアへ行くことになりました。

チャーター料が安いため、ジェット機ではなくターボプロップ機DC-7機材をチャーターし、最大積載量を上回る救援物資を積み込んで、クレメンテを乗せたDC-7は12月31日の夜に離陸しました。しかしその直後に片方のエンジンの調子がおかしくなり、フライトデータレコーダーによると操縦士が引き返すと言い、急旋回した直後にカリブ海へ墜落。クレメンテは死亡しました。事故後、沿岸警備隊の捜索や、クレメンテの友人たちによる救助活動が行われたが、機体の一部を回収したのみで、クレメンテの遺体は発見されていません。慈善活動中に命を落としたクレメンテですが、クレメンテが慈善活動へ取り組みなどの影響を与えたということはこれからも語り継がれていくと思います。